『葦と百合』

 小説を書き始め、プロでやっていこうと考えはじめた頃、一番の心配は、自分が長い小説を書けるかどうかであった。それまで、僕は長くて二百枚くらいのものしか書いていなかったので、なんだか不安であった。その後、千枚くらいが当たり前の作風になることを思うと、夢のようではある。

 それで、とにかく、なんでもいいから長いものを書いてみようと思って書いたのがこの作品である。別の所にも書いたことがあるが、作家が長く書こうと思って、長く書いたものを読まされたのでは、読者に申し訳ないと思い、ミステリー仕立てにするなど、飽きずに読んでいただけるよう工夫した。

 この作品では、一人称、三人称、ふたつの文体のテキストが、メタフィクショナルに交錯する仕掛けが採用されている。これは当初よりの狙いといえば狙いだが、実は、苦肉の策なのでもあった。というのは、当時の僕は(いまでも実はそうなのだが)、いわゆる三人称リアリズムに対して違和感があって、だから、三人称の部分の虚構性をわざと際だたせることで、違和感を緩和しようと思ったのだ。

 つまり、三人称リアリズムというやつは、どうも嘘臭い。小説はもともと虚構だから、嘘なのはかまわないが、嘘臭いのは駄目だ。貧乏はいいが、貧乏くさいのはいやだ。田舎は好きだが田舎臭いのは許せない。青はいいが、青臭いのは困る。これらと同じである。嘘臭いことくらい小説にとっていやなことはない。そこで、まさしく苦肉の策、これは嘘なんですよ、という仕掛けでもって、ごまかそうとしたわけだ。

 思うに、近代以降、日本語で書く作家にとって、三人称リアリズムはひとつの障壁になっている。多くの作家が、トルストイやバルザックの小説を嘘臭いといって退けてきたのは、そのためである。心境小説に行き着くような私小説の流れは、三人称リアリズムの嘘臭さに対する抵抗感にたぶん根拠がある。三人称リアリズムが嘘臭く感じられるのは、恐らく、日本の近代が、「社会」という虚構の空間を確立しきれなかったことと関係があるだろう。これは依然として大きな課題である。

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